昭和49年04月20日 朝の御理解



 御理解 第93節 
 「氏子は神の守りをしておる者を神と心得て参詣する。守りが留守なら、参詣した氏子は、今日はお留守じゃと言おうが。神の前をあけておく事は出来ぬ。万事に行き届いた信心をせよ。常平生、心に裃を着けておれ。人には上下があるが、神には上下がない。人間は皆同じ様に神の氏子じゃによって、見下したり汚がったりしてはならぬぞ。」

 今日はこの御理解は、私自身に下さってある、御教えだと思うんです。けれども、なら私が頂く御理解を、皆さんも頂いてはいけないと、云う事ではないのですから、いやむしろ、頂かして頂かなきゃならんのです。けれども、私は今日この、九十三節を頂きましてから、今日は是は、私の事だなと思わせて頂いたんです。今日は何故かと言えば、私がここの御広前を留守にしなければならんのです。あけなきゃならんのです。神様は辛辣(しんらつ)ですね。
 そりゃ成程お許しを頂いてあります。ちゃんと万事万端に御都合お繰り合わせ頂いております。もうその印を色んな意味で感じます。今日はあちらの国東半島ですか、あちらの方へ、菊栄会の方達が何時もの信心実習、私を中心にしてなさいます。今度はバスで行く事になりましてね。それも日田の三崎屋さん三崎屋さんの所へ、ちゃんとそのバスが寝て行けれる様に、合わせた布団まで出来てね。
 それは九名か十名かしか乗れないそうですけれども、丁度菊栄会に手頃なバスで、だからそれで行こうと云う事になっていたんです。昨日も丁度日田の方達が今三人ああして毎日参って見えております。そのちょっと後から三崎屋さんが参ってきました。「あらああなた方一緒だったんですか」「いや、今日私はハイヤーで参って来ました」「もう主人が今日は参れ参れと言うから参って来ました」とこう言うんです。「珍しい事でしたね」「それがああた、昨日競輪に夫婦で行きました。
 二人で同じもんばかり買っとった。そしてねあなたも親先生・金光様と言いなさい。私も親先生・金光様と言うからと言うて、親先生・金光様と言うた途端に、買うた自転車がそれがターッと抜いて一番になった。おかげで二人で五万円儲からせて頂いた。だからもう、今日は主人が早く参れ早く参れと言うから、綾部さんが参ってるなら、ハイヤーででも参れと言うから、電話を掛けた所がもう参られた後じゃった。それでハイヤーを雇うて今日は参ってきた」とこう言うのですよ。
 私はそれを聞かせて頂きながら、本当にその有難いなあとこう、神様は例えば自動車一つ使うてもただ使いはなさらないなと云う事です。もう向こうはだから「もう兎に角使うて下さい」です昨日。「どうぞ、使うて下さい」と云う風に、まぁあれ是と私は一つの事をなします時に、その前後の事から、是はお許しを頂いておるなと感じなければ、例えば御広前をあける様な事はようしません。勿論あける訳ではありません。私の手代わりの人が、若先生もおりゃあ修行生の方達も沢山おりますから。
 ここでは例えばお掃除の時間だってここであけませんからね、実を言うたら、朝の四時から晩の九時までは絶対あけません。私はちょっとお手洗いに立つのでも、代わりの者を据えなければ、と言うのが私の主義ですから、今日はだから私の手代わりを若先生他、先生方がまあやってくれる訳ですけれどもそれとてもです。やはり「シャンとせにゃいけんぞ」と言うて下さったと思うんです。三崎屋さんの車を今日借りる。三崎屋さんも嬉しゅうして応えんで今日は、私共に使うてもらう事が出来る。
 私共もそれを利用さしてもらう事が出来る。いわゆるどちらもがおかげおかげと云う事なんです。今日は私今朝方から、こう云う夢を頂いたんです。『私はちょっとこう酩酊してる。酔ってるんです。ここの長い廊下をフラフラしながら、御広前の方へやって来ている。電気のスイッチがそこのガラスの所に、実際はないけれどもあそこに実際はこちらにありますけどもそこにこうあります。ここに楽人さん達が何人かで、楽の練習をやっているんです。練習と言うか、楽をいわゆる、奏でておる訳なんです。
 それに、薄暗い電気でやってますから、私が御広前全体に点けれるスイッチだと思って、パッとこうスイッチを押しましたら、全館が消えてしまったんです。それで確か、どうした訳じゃろうかどうした訳じゃろうかと、こう、いくら押しても押しても点かんのです』と云う所で目が覚めた。そして今朝の御理解ですから、なお私はそれを感ずるんです。今晩遅う帰ってくる予定ですけれども、あちらへ行けばそれこそ日本一の鰈(かれい)がある所ですね。
 あのう城下鰈という、日本一美味しい鰈が食べられる所なんです。それは私先年も参りましたが、そりゃもう私共の様に魚の好かん者でも、そりゃもうたまがる様に美味しいですやはり。だから昨日から綾部さんはわざわざ、丁度娘さんが、あちらへ嫁に行っておりますから、昨日から行って、準備に色々となさっておられます。そこへ行くのですから御神酒を頂かんはずがありません。
 私本当にそればってん神様がこうやってその一つの事、例えば今日私が留守をするなら留守をすると云う事にでも、私の性根の中に神様が入って下さって、間違うてはならん。私が一人間違えば、沢山の方が間違う事になるのだからと、念を押して下さる事が有難いと思うです。今日のこの御理解と言い、お夢と言い、私は後でお夢を頂き終わってから感じたんですけれども、この楽(がく)と云うのは、これは言わばお祭りの時のあれは一つのリズムなんです。
 言うならば、歌を歌うならば伴奏であり、浪花節であるなら相方なんです。だから、合楽全体が一つの神様が奏でて下さる所のリズムに乗って是だけ沢山の人がおかげを頂いて行きよるんだ。所が私が、酔っ払ったり間違っておって、そりゃ心の中には、明くしようと思うて点けたのが、反対に消えて、どれを押しても点かないと言った様な、真っ暗になる様な事になってはならないと云う事です。せっかくのリズムが奏でられておりましても、電気が消えたから弾けないでしょう。
 是はもう二十数年になりますか、久留米の光橋先生が亡くなった直後でした。私あの時分に昼全然休みません。ただ下がるのは控えに下がらせて頂いて、休憩をさせて頂いとる。何時でもまた御結界代わられる様に、ご飯の後一時間か二時間か控えの方で、それも横にならないで、火鉢に寄り掛かったまま眠ると云う様な時代でした。それがその確かに火鉢に寄り掛かって寝とる積りじゃったのが、何時の間にか火鉢の横に倒れてから、長くなって寝てるわけです。そしたらお夢の中にです。
 やはり火鉢の私はこちらに座っとるなら、光橋先生が何時もお茶をする時に座っとった場所があるんです。そこへもう水色の何とも言えん御装束を着けて、おたぐらかいてからこうやって居眠りをしてる所を頂いて、はっと思うて目が覚めたです。神様がお前が眠っとると言うならば、ここには御霊様方の働きも沢山頂いておる訳です。特にここで先生と言われる様な方達が、久保山とか光橋先生は亡くなりましたが、やはり御霊ながらに教会の発展を祈ったり、御用したりしとる訳です。
 「お前が眠っとると霊様も眠っとるぞ」と言うて下さった。と思うて本当に跳ね起きる様にして起きて、御用させて頂いた事があります。是はね今日のこの御理解は、勿論恐らく教師に対する、取次者に対する所の御理解ですけれども、もう皆さんの場合であっても同じ事です。言うなら、合わせ鏡と同じ事ですから、眠り半分の信心すりゃ、眠り半分のおかげです。もう是はね、教師であろうが、皆さんが銘々でおかげを受けられるのであろうがです。結局皆さんのおかげの程度なんです。
 もうこの神様ばかりはごまかしが出来けんのですから、良い信心すりゃ良いおかげが受けられるです。これは今日は愈々私の手代わりで御用して下さる先生方がです。若先生を始め、上野先生、西岡先生、末永先生、そして幹三郎が今御用をさせてもらっていますが、兎に角自分が奉仕させて頂くその時間をその一番素晴らしいコンディションである様な心がけを持ってです。もう座った途端、御結界に座った途端に居眠りする先生がおる。だから、その奉仕させてもらう時間を。
 愈々素晴らしいコンディション、今日は親先生がお留守だから親先生の手代わりとして、手抜かりのない様にと云う様なです。おかげをどうでも頂いてもらわにゃならない。今日は私はじめまた、今日私の手代わりをして下さる先生方に対する、まあ言うならば御理解である。同時にしんらつに私はお夢からお夢と同時に、今日の九十三節によってもうのっけから、御広前を留守にしてはあけてはならんと云う事をね下さってある。言うならば、私もあちらへ参りましても。
 油断なしにおかげを頂かにゃならんと思うんですけれども、もう兎に角合わせ鏡と同じ事ですから、こちらの心がけ次第でおかげが決まるのです。私は毎晩の事で御座いますけれども、お風呂を頂きます時に、昨日は丁度石けんが薄うなっておりましたから、まあ次の石けんがちゃんと出してもらっとりました。私はもうここ二十数年間、石けんは牛乳石けんの、白の赤箱に入ったのだけしか使わんものですから。
 それがもう沢山お供え頂いてるです。一遍でも買うた事も無からなければ、他の石けん使うた事もありません。他の石けんも、沢山頂きますけれども、他の石けんは他の方達が使います。牛乳石けんだけは私が使う。それを使うたんびんにです。本当に神様から頂いておるおかげのその有難い事、素晴らしい、もうお風呂へ入ってから、今久富先生と一緒に入りますけれども、久富先生がいつも感じられるだろうと思うけれども、私が何遍「金光様有難う御座います」をお風呂の中で言うか知れません。
 皆さ、私は金光様の御信心はね、本当に「有難い有難い」と言うてです。もうお礼の中から、もう次にお礼を申し上げねばならん程しのおかげを頂かなければいけない。そう云うおかげの頂けれる所まで一つ、お互い信心を進めなければいけないと思うです。何処をどう見ても、もうおかげばっかり、そりゃあね、どんなにおかげを頂いておらんと言うても、実はおかげを受けてるですけれど、やっぱり現実の私の様にです。
 もう何から何まで、御恩恵の中に、おかげの中に特別の、言うならおかげの中に浸らせて頂いておりますとです。何処をどう見てもお礼を申し上げなければおられない。そのお礼心にまた、お礼を申し上げなければならん程しのおかげが集まって来るのです。ですから皆さん、やっぱりどうでもおかげを受けなきゃいけませんですね。けれどもそのおかげを頂いておってもです。
 特別のおかげを頂いておっても、例えば自分が苦しかったり、困ったり難儀な事になって来ると、その頂いておるおかげを忘却した様に、有難いと云う事を言わずに、ただ願う事ばっかりと言った様な事では、おかげを頂きますよ、それは願えばけれどもそれではね、本当のおかげにならない様です。本当のおかげというのはもうお礼からお礼、結局お礼が足りないということを言われますが、もう確かにお礼が足りんのです。
 本当におかげを頂かなきゃ、何を見てもかにを見ても、何を聞いても、本当に有り難い有難いとお礼を申し上げなければおられないその心に、限りない有り難いおかげがまた頂けるのです。だからそう云うおかげを頂いてです。日々を有難いもったいないで過ごさせて頂ける程しのおかげを頂く為に、今日私は是は私に下さったまた、今日合楽の修行生の先生方に対して下さったと思われる御理解ですけれども、皆さんとても同じ事、信心に手抜かりがない様に。
 赤の心を持って来れば赤のおかげであり、青の信心をすりゃ青のおかげであると云う事をです。例えばまたの御理解に「取次の者が早いと、信者の早い遅いにかかわるぞ」とおっしゃる事は、教師だけの事じゃないです。皆さんがこう云う信心すりゃこう云うおかげ、ああ云う信心すりゃああ云うおかげと云う事なのですから、今日はそう云う意味でね、まあ言うなら私に下さった御理解、私はそれを肝に命じて頂いて、今日一日御広前をあけますけれども、皆さんもそう云う心がけで信心を進めて行く所からです。
 もう間違いのないおかげが受けられる。何を見ても何を聞いても、本当にこの石けん一つの中に込められておる神様の願い、しかも何十年間しかも、同じ牛乳石けんの赤箱が、もう集まりに集まって来ておる。とても勿体のうして、無駄や疎かにだん使われない。それこそ紙の様に薄うなっても、又それをこうして次のにひっつけて、こう使わして頂くんですけれども、もう本当に相済まん事ですけれど。
 昨日でも私夜中に昨日床屋さんが来る日ですから、来てくれるはずじゃったけど来てくれませんでしたから、夜中に風呂へ入って自分で髭をあたらして頂こうと思うてやって来た。そしたら栄四郎と北野の秋山君がもうお風呂に入ろうとしておる所だった。入口の電気を点けとる。中の電気を点けとる又お風呂の中の電気も、三つも点けて入っとるどれか一つ点ければ結構お風呂に入られるのにこう云うお粗末な事をしとる。
 さあそして中へ入って見ると、石けんなそれこそドロドロんなる様になっとる。是はもう、私は毎日の様にそれを必ずするんですけどね、ちょっと水を拭いたら拭いただけ損しますからね。あれをただ水切っただけで、石鹸箱なら石けん箱の上にこうやって垂らし掛けておくんですよ。そうすると、明くる日使う時にはカラカラする事なっとるです。それを普通の今の石けん箱なんかは、目があいとったちゃ水が切れませんから、引っ繰り返すとドロドロになっとる。柔くなっとるでしょうが。
 あのう本当にね、おかげを頂いておると云う事が判れば判る程、勿体ないからそげんな出来んです。ああいうお粗末な事をするのは、おかげを頂いとると云う実感がないからあんな事をするんです。神様の特別なおかげを頂いておると思うたら、そうしなければおられないです。そう云う信心からです。今申します様にどこを見ても、本当に特別のおかげの中にあると思うから、お礼を何遍申し上げるか分からん程しのお礼の心が芯から湧いて来る。その芯から湧いてくる有り難しにです。
 「真に有り難しと思う心すぐにみかげの始め」でありますから、有り難いと云う心に又、有り難いおかげが受けられる。また有り難い。この調子を落とさん様におかげを頂いて行かなきゃならないと云う事です。そりゃ皆さんの場合には、願わなければならん事が沢山ありますけれども、どうでもやはりお礼が中心になる。お礼が信心のその芯になる様なまずおかげを、だから受けなきゃいけない。
 その為には、今日私が申します、私に対して神様が厳しゅう言うて下さるのは、私だけではない皆さんにもやはり厳しゅうです。「こう云う所から手落ちになるぞ」「こう云う所から真っ暗になるぞ」「こう云う所から、せっかく出ておる調子が消えてなくなるぞ」と教えて下さったのですから、そこの所を一つ頂いて頂かなければならんと思います。
   どうぞ。